February 15, 2006

繭ができるまで06農

かつての農村は、ムラ−ノラ−ヤマ−ノラ−ムラ・・・・・
というセットの繰り返しで出来ており、複雑な地形が生み出す水空間のつながりによって、多様な生き物が移動できたという守山さんの話(田んぼの勉強会にて)。また、水田の肥料とされた「かりしき」は春先にヤマで青い葉を刈り取ったもの。ももたろうに出てくる「おじいさんはヤマでしばかりに」の「しばかり」とは、「かりしき」を示すものだが、いつのまにか絵本に描かれたおじいさんが背負っているものは、青々としたかりしきではなく、枯れ木にすり替わって描かれている。ヤマにしばかりに行かなくなって、そのような基礎知識がなくなったからなのでしょうか。

かつてのヤマと関わる農村の生活は、自然の理にかなったものがあり、また人の営みが様々な生き物の生活空間を作りだしていたようです。
蝶の研究者である井上さんによると、

昔の田畑、特に谷津田のような場所では、水田の周りにいきなり林があったわけではなくて、林が田畑にかげを落とすことをを避けるために数メートルから10mほどの幅で樹を伐採して草地にしていた部分があり、これを「陰伐地」と呼んでいた。
そこで刈り取られた草は、当然牛馬の餌となり、あるいは「かりしき」になっていたはず。
そしてその部分はワラビやゼンマイやそのほか山菜の生育場所にもなっていたし、作業の間の休憩場所にも使われていた。
この陰伐地の部分は田畑の周囲にずっと続いていたので、幅は狭くても総面積ではかなりの大きさになる「草原」であったはずですで、現在では絶滅に瀕している草原性の生き物の生息地でもあった。ということです。

今の、生活スタイルでは、昔ながらの生活に後戻りするのも難しいと思いますが、「人が生活することで、保たれる自然環境」というスタイルは今の時代でも可能でしょう。あれこれ関わってみたいです。

難しく考えず、常に自然を感じながら、自然と関わりながら生活することはきっと簡単なこと。

「繭」はたとえ小さくても、そんな生活が可能になる家にしたいと思います。


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16:34:00 | sakura | | TrackBacks