March 12, 2007

原風景がなくなるということ

気がつけば、桜川のそうじから、あっという間に一週間がすぎてしまいました。建設中の建築現場に出かけたり、詳細図を描いたりしているとあっという間に一日がすぎてしまいます。このところ、休みがとれなかったり夜おそくまでの仕事が続いていて、実はちょっと疲れがたまっていましたが、桜川のそうじで朝早く起き、アウトドアで体を動かしたおかげで、びっくりするほど疲労回復しました。桜川そうじの後に、北茨城に行って温泉につかったのも効いてます。私の近況はさておき、

川に足を運ぶたびに考えることがあります。

かつて魚とりやシジミ取りで賑わった河川が、今や、川に大量のゴミが捨てられ、見捨てられたような存在になったのはなぜなのか...。

ゴミが捨てられて、見捨てられたようになったのか、
見捨てられたような存在になったので、ゴミが捨てられるようになったのか。

それは、もしかしたら、後者かもしれません。

かつて川は、人の生活にかかせないもので、川の魚は重要なタンパク源であり、川は子供の遊び場、学びの場であり、農作業をする人々にとっては一息いれる社交の場でもあり、河川に繁茂する草は家畜の餌にもなっていたと聞きます。
桜川のすぐ近くに生家がある私の父は、毎日毎日、桜川でばかり遊んでいたそうです。桜川近隣の人々も、やっぱり桜川ですごした思い出を持っておられます。

ところがいつしか、川の水は濁り、川は危険な場所として遊ぶのを禁じられ、家畜を飼う人もほとんどいなくなり、川を利用する機会がなくなってしまったのかもしれません。

しかし、人が川によりつかなくなる理由はそれだけではないと思います。
度重なる河川改修で、利用していた場所がなくなった、好きだった風景がなくなった、ということが、実は大きいのではないかと思います。

そこはかとなく好きだった風景が、ある日突然、壊される。
壊されていく風景、無尽蔵になぎ倒されていく木々を目前にして何もできない自分がいて、その自分の小ささを感じてしまう。
ずっと変わらないだろうと思っていたものが、ある日突然、強力な力で壊される。

その時、人は、もう、自分の好きな場所ではない、自分の居場所はない、と思ってしまうのではないでしょうか。
そんなつらい場所に足を運ぼうとは思わなくなってしまう。

河川改修は、利水、治水の面でやむを得ない場合もあるでしょうし、利水治水の歴史の中で生まれた文化も多いと思います。

しかし、好きだった風景がなくなったことのショックは、多かれ少なかれ、潜在意識として残っているように思われてなりません。人々の原風景を壊さないようなきめ細やかさですこしづつ改善していくような方法が河川空間には必要なのではないかと思います。

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15:21:09 | sakura | | TrackBacks